一般社団法人がん哲学外来

ことばの処方箋

これまでの“ことばの処方箋”

馬から下りて花を見る
〈Get off the horse and look at the flowers.〉
かつて侍たちは村を通る際、馬の上から村民を見下ろしていた。
力のあるものが、力の無いものを支配する。
それは今の世の中でも常時どこでもおきていて、
これを読むあなたの行動もそう見えることもあるかもしれない。
そこに気づき、相手と話すときに相手と同じ視点、
同じ視野でものを見直してみよう。
世の中は大きく変わって見えるようになるのではないか。
苦しみが品性を磨く
〈Suffering helps shape a character.〉
病にかかること、生活の上で辛酸をなめること、悔しいこと、
たくさんのことが人生におきてくる。
そのときはとても苦しいものであるが、
そのことを真摯に受け止め、生きてゆくことで、
人間らしさや品性が磨かれてゆくものではないだろうか。
人生にはもしかすると、このときのためと思えることがある
〈Maybe it was all meant for today.〉
人生の邂逅ともいえる瞬間がどの人にも訪れてくる。
その瞬間はいつなのかわからない。
一つとて、日々の努力や生活に無駄はないということではないか。
1日1日、一期一会を大切に。
どちらの道をとるか、きめなければならないのは私たちなのだ。
レイチェル・カーソンの「沈黙の春」の一部。
訳者の青樹簗一氏は南原繁の息子、南原実氏。
私たちは「人生のなかで常に何かを選択して
生きていかなくてはならない」というあり方を述べている。
日本肝臓論
肝臓という臓器の特徴は、人間のあり方に置き換えることができる。
「人体で起こっていることは社会と連動している」
という吉田富三の言葉と関連付けることができる。
冷たい専門性より温かいアマチュア精神が効果的なこともある。
冷たくても専門性は必要。
足らない部分を温かいアマチュア精神≒メディカルカフェで補う。
医療の隙間を埋めるということである。
新渡戸稲造は「センモンセンスよりもコモンセンス」と言っている。
センモンセンスは専門家のみであるが、コモンセンスは誰でも磨くことができる。
死魚は流れのままに流されるが、活魚は流れに逆らって泳ぐ。
札幌農学校で水産学が専門であった内村鑑三の言葉。
流れのままに流されるのは簡単だが、
思いをもって生きているのであれば、
敢えて流れに逆らって生きる生き方もある。
縦の関係と横の関係
「人生には縦の関係と横の関係があり、
この二種類の関係を大切にしなければならない」
という新渡戸稲造の言葉。
縦は天(神)とのつながり、横は人と人、
社会とのつながりをあらわす。
人生は開いた扇の要の如く
「すべて小さく始まって着実に広がっていく」
「出発点では小さくてたえず大きくなっている」
という人生を扇に喩えた新渡戸稲造の言葉と、
多段階発がんの「起始→過程→大成」を同様のものととらえた
吉田富三の「癌細胞に起こることは人間社会にも必ず起こる。
つまり人体の中で起こっていることは社会と連動している」を想起させる。
要の部分は人間社会では出会いを意味する。
一番大切なものは目に見えない
サン=テグジュペリの「星の王子さま」より。
「星の王子さま」は大切なものを探し求めるが、
大切なものは目に見えないし、人によって違うことに気づく。
ある種、究極の場面ともいえる死に対しても
「死ぬことになったとしても、友だちがいたというのはいいことだよ」
という気づきを得る。
気にすることなく、やり遂げなさい
マザー・テレサの『あなたの中の最良のものを』の一部分。
いついかなるときでも、
自分の中の最良のものを与え続ける努力をしなさいという意味。
マザー・テレサの言葉には「相手のニーズに添う」という部分はないが、
自分の思いでやっていたとしても、
それが神から与えられたものであるならば、相手のためになっているのかも。
曖昧なことは曖昧に考える
はっきりさせることばかりがよいのではない。
答えは無理に出さなくてもよいが、考えることはしたほうがよい。
心理学的な言葉では「ネガティブ・ケイパビリティ」にあたる。
がん哲学的には「考えるのは1日1時間」でよい。
病気であっても病人でない
患者さんに対しては病気に縛られないでというメッセージ。
ケアギバーに対しては、「患者さんにはこういうつらさがあるに違いない」
という思い込みをもって、つまり患者さんを病人に仕立ててしまわずに、
その人自身と向き合いましょうというメッセージ。
生き方がハンサム
同志社を設立した新島襄が、 当時婚約者であった八重を紹介するときに使った言葉 「八重はハンサムではないが、彼女の生き方がハンサムだ」。 容姿が美しいことよりも、 生き方が自律していてカッコイイ人を目標とする。
空っぽの器
出典は聖書に出てくる「土の器」と思われる。 「土の器」は身体を表し、材料が同じであっても、 焼き方によって、いろいろの器ができる。 転じて、同じ人間の身体であっても、健康であることも病を得ることもある。 どんな器であっても、中身として宝を入れている。 どんな人も大切な一個人である喩え。 どんな器であっても、慈愛によって包み込まれる。 どんな人をも包み込む器がメディカルカフェであるという喩え。
われ21世紀の新渡戸とならん
がん哲学の提唱者である樋野興夫先生の「われ21世紀の新渡戸とならん」は、 新渡戸稲造の言葉である「我、太平洋の橋とならん」 をもじったものと思っていたが、新渡戸の生き方を学ぶと、 樋野先生は新渡戸をロールモデルにされていると感じる。 ロールモデルをみつけることで自身の成長を促せる。
己れを棄つる
世のため人のためにさまざまな活動をしてきた 新渡戸稲造の遺言と言われている文 「衆の為めに努むるを生命といふなり。死とは何事をもせざるの意なり。 己れを棄つるは是れ生命の始なり。」 ここに新渡戸稲造の生き方が表現されている。
新渡戸稲造の言葉。
武士道の徳目は、「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」は がん哲学の徳目としても捉えることができる。 「義」は正義(正論)、「勇」は勇気、「仁」は思いやり、 「礼」は実際に行動として起こす、「誠」は誠実、 「名誉」はいのちより大切なもの、「忠義」は何のために生きるのか というように置き換えてみると、どれも時代を超えて、大切なことである。
冷たい親族より温かい他人
内村鑑三は家庭環境に恵まれなかった。
きょうだいや夫婦仲はうまくいかなかったが、
内村はキリスト者の集まりの中に温かい他人を見出した。
しかし、そんな内村も、3番目の妻と結婚したときに、
家庭が安らげるものだと気づいた。
「ホーム」が安らげるところでなくても、
「ホーム」の外に居場所はあるものである。
モー往きます
内村ルツ子(内村鑑三の娘)の最期の言葉。
ルツ子は原因不明の病で17歳で亡くなった。
内村は「往きます」に「大往生」の「往」を使った。
これにより、娘の死が大往生であったと思った、
または思いたかった内村の思いが詰まった言葉となった。
ハッピーではなく、ジョイフルを求めましょう。
ジョイフルは内面から湧き上がってくる「歓び」。
ハッピーを追い求めても、虚しさが残ることもある。
ジョイフルは人から与えられるものではなく、自分で気づくものだが、
ジョイフルに気づいた人は、些細なことにもハッピーを感じられる。
右の手をもって施した慈悲を左の手に知らしむるなかれ
キリストの言葉。意味は「陰徳」。
誰に知られるともなく、困っている人に手を差し伸べること。
新渡戸稲造はこれを実践していた。
新渡戸稲造は困っている人、弱い人、女性に心を寄せ、援助していた。
散る桜 残る桜も 散る桜
良寛和尚の言葉。
誰でもいつかは亡くなる。限られた「いのち」である。
そのことを受け容れ、今を大事に生きましょう。
構造異型に立ち向かう度量
「構造異型」はこの場合がんを指すが、
吉田富三は「がんに起こることは人間社会にも起こる」と言っている。
吉田富三はがんを「ヤクザ」に喩え、
「ヤクザは面白い、悪性には違いないが乱暴に取り除くと
又別の副作用が生じる。結局は共存しなくてはならない」と言っている。
目下の急務はただ忍耐あるのみ
ウサギの耳に1年近くコールタールを塗擦し続けて、
人工発がんさせた山極勝三郎の言葉。
山極はノーベル賞の候補にあがるが、受賞できなかった。
山極がどんなシチュエーションで言ったのか。
「我慢」と「忍耐」はどう違うのか。
「我慢」は煩悩の一つ、「忍耐」は徳の一つ。
今直ちにすべきことは徳を積むこと。
がん哲学
樋野興夫先生は、吉田富三の「がん学」と
南原繁の「(政治)哲学」をドッキングさせて
「がん哲学」という言葉を造られた。 自然災害に心を痛めた内村鑑三は
「自然科学的現象に意味を探る宗教的説明も成り立つとし、
そのほうが人生をより深くする」と言っており、
どうしようもないことに対して、科学的考察だけでなく、
哲学的説明(生きる意味を探る)も成り立つという考えが
「がん哲学」の源流ではないか。
小さなことに大きな愛を込める
「私たちは、大きいことはできません。
小さなことを大きな愛をもって行うだけです」というマザー・テレサの言葉。
大切なことは、いくら与えたかではなく、与えることにどれだけの愛を注いだか。
思っているだけでなく、小さなことでもいいから、
心をこめて何かアクションを起こしてみましょう。
人生から期待される生き方
出典は「人生のほうはまだ、あなたに対する期待を捨てていないはずだ」
というアインシュタインの言葉。
あきらめたのはあなたのほうではないですかという問いかけ。
「To do」の前の「To be」
「『何かをなす』前に『何かである』ということを考えよ」
という新渡戸稲造の言葉を南原繁が引用したもの。
がん哲学外来的には、「何かをしてあげよう」とするのではなく、
「そばにいる」という態度が大切ある。
「なにノミやシラミだと思えばいいのさ。・・・」
「ほっとけ、気にするな」と類義の言葉。
勝海舟「人に斬られても、こちらは斬らぬという覚悟」 
これは「負けるが勝ち」という勝海舟の父、勝小吉の言葉にそうものと思われる。
この精神こそが武士道であるとしたのは新渡戸稲造。
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