一般社団法人がん哲学外来

ことばの処方箋

これまでの“ことばの処方箋”

己れを棄つる
世のため人のためにさまざまな活動をしてきた 新渡戸稲造の遺言と言われている文 「衆の為めに努むるを生命といふなり。死とは何事をもせざるの意なり。 己れを棄つるは是れ生命の始なり。」 ここに新渡戸稲造の生き方が表現されている。
新渡戸稲造の言葉。
武士道の徳目は、「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」は がん哲学の徳目としても捉えることができる。 「義」は正義(正論)、「勇」は勇気、「仁」は思いやり、 「礼」は実際に行動として起こす、「誠」は誠実、 「名誉」はいのちより大切なもの、「忠義」は何のために生きるのか というように置き換えてみると、どれも時代を超えて、大切なことである。
冷たい親族より温かい他人
内村鑑三は家庭環境に恵まれなかった。
きょうだいや夫婦仲はうまくいかなかったが、
内村はキリスト者の集まりの中に温かい他人を見出した。
しかし、そんな内村も、3番目の妻と結婚したときに、
家庭が安らげるものだと気づいた。
「ホーム」が安らげるところでなくても、
「ホーム」の外に居場所はあるものである。
モー往きます
内村ルツ子(内村鑑三の娘)の最期の言葉。
ルツ子は原因不明の病で17歳で亡くなった。
内村は「往きます」に「大往生」の「往」を使った。
これにより、娘の死が大往生であったと思った、
または思いたかった内村の思いが詰まった言葉となった。
ハッピーではなく、ジョイフルを求めましょう。
ジョイフルは内面から湧き上がってくる「歓び」。
ハッピーを追い求めても、虚しさが残ることもある。
ジョイフルは人から与えられるものではなく、自分で気づくものだが、
ジョイフルに気づいた人は、些細なことにもハッピーを感じられる。
右の手をもって施した慈悲を左の手に知らしむるなかれ
キリストの言葉。意味は「陰徳」。
誰に知られるともなく、困っている人に手を差し伸べること。
新渡戸稲造はこれを実践していた。
新渡戸稲造は困っている人、弱い人、女性に心を寄せ、援助していた。
散る桜 残る桜も 散る桜
良寛和尚の言葉。
誰でもいつかは亡くなる。限られた「いのち」である。
そのことを受け容れ、今を大事に生きましょう。
構造異型に立ち向かう度量
「構造異型」はこの場合がんを指すが、
吉田富三は「がんに起こることは人間社会にも起こる」と言っている。
吉田富三はがんを「ヤクザ」に喩え、
「ヤクザは面白い、悪性には違いないが乱暴に取り除くと
又別の副作用が生じる。結局は共存しなくてはならない」と言っている。
目下の急務はただ忍耐あるのみ
ウサギの耳に1年近くコールタールを塗擦し続けて、
人工発がんさせた山極勝三郎の言葉。
山極はノーベル賞の候補にあがるが、受賞できなかった。
山極がどんなシチュエーションで言ったのか。
「我慢」と「忍耐」はどう違うのか。
「我慢」は煩悩の一つ、「忍耐」は徳の一つ。
今直ちにすべきことは徳を積むこと。
がん哲学
樋野興夫先生は、吉田富三の「がん学」と
南原繁の「(政治)哲学」をドッキングさせて
「がん哲学」という言葉を造られた。 自然災害に心を痛めた内村鑑三は
「自然科学的現象に意味を探る宗教的説明も成り立つとし、
そのほうが人生をより深くする」と言っており、
どうしようもないことに対して、科学的考察だけでなく、
哲学的説明(生きる意味を探る)も成り立つという考えが
「がん哲学」の源流ではないか。
小さなことに大きな愛を込める
「私たちは、大きいことはできません。
小さなことを大きな愛をもって行うだけです」というマザー・テレサの言葉。
大切なことは、いくら与えたかではなく、与えることにどれだけの愛を注いだか。
思っているだけでなく、小さなことでもいいから、
心をこめて何かアクションを起こしてみましょう。
人生から期待される生き方
出典は「人生のほうはまだ、あなたに対する期待を捨てていないはずだ」
というアインシュタインの言葉。
あきらめたのはあなたのほうではないですかという問いかけ。
「To do」の前の「To be」
「『何かをなす』前に『何かである』ということを考えよ」
という新渡戸稲造の言葉を南原繁が引用したもの。
がん哲学外来的には、「何かをしてあげよう」とするのではなく、
「そばにいる」という態度が大切ある。
「なにノミやシラミだと思えばいいのさ。・・・」
「ほっとけ、気にするな」と類義の言葉。
勝海舟「人に斬られても、こちらは斬らぬという覚悟」 
これは「負けるが勝ち」という勝海舟の父、勝小吉の言葉にそうものと思われる。
この精神こそが武士道であるとしたのは新渡戸稲造。
「桃太郎」の現代的意義
犬猿の仲のものが一つの目標に向かって一緒に進んだ。
これは2つの焦点をもつ「楕円形の心」である。
新渡戸稲造によると、性質の異なったものを
「最高の運命共同体」に育て上げたのが「桃太郎の器量」である。
人生いばらの道、されど宴会
出典は聖書。苦しんでいる人、つらい人、悩んでいる人は
ついついネガティブ思考に陥ってしまう。
そういうときでも心の持ち方次第で、心が少し軽くなることもあるかも。
ただ、渦中にある人はなかなかそうは思えないし、
楽しい思い出を持ちあわせているとも限らない。
支援者は30mの距離をもって、ずっと寄り添い続けることが必要。
「私たちの齢は70年。健やかであっても80年。」
聖書によると、一番初めに創られた人であるアダムは930歳であったが、
神様が人間の寿命を短く設定することにしたとされる。モーセは120歳生きた。
崇神天皇は120歳まで生きたと日本書紀に記されている。
現代(2022年4月)の世界最高齢は118歳である。
さまざまな原因で寿命まで生きられないことがあり、がんもその原因の一つである。
がんは遺伝子の変化で起こる。加齢だけでも遺伝子の変化の可能性はあり、
つまり、生きることががん化への道となる。
それをどう受けとめるか。「ニーバーの祈り」のなかにそのヒントが書かれている。
一人の人間を癒す為には、一つの村が必要である。
「田舎が廃れて農業が廃れてしまうと人格を形成することができない」
という新渡戸稲造の持論によるものと思われる。
遠くのことより身近な村のことから知るほうが知識が生きてくるので、
地域のニーズにあった活動(がん哲学外来カフェ)ができ得る。
尺取り虫になって歩む
尺取り虫の運動は、
後ろの一点を固定して、前部を動かすので、
オリジナリティーを失わずに自分で生き方を決めることができる。 また尺取り虫が体を屈するのは伸ばそうとしてのことである。
人間も一時的に不遇であってもそれは将来に備えての準備である。
「僕にもわからん」
矢内原忠雄が内村鑑三に
両親の死後の運命について質問をしたときの内村の返答。 この言葉により矢内原は、誰か人に教えてもらうのではなく、
時が来れば神が教えてくれる(自分で気づくことができる)
ということがわかった。
ユーモアとはユー・モアなり
ユーモアとは、人がおかしさを感じて、
表情が和んだり、心が温かくなったり、
場の空気が柔らかくなったりするような発言のこと。
相手のことを「ユー・モア(もっと大切に)」思って、
相手を和ませるような言葉を発することが肝要。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
聖書(マタイによる福音書)より。
明日には明日の苦労があるかもしれないが、
取り越し苦労することなく、
今日という一日を大切に生きていきましょう。
「人はパンで生きる」は事実。・・・
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
という聖書の言葉が出典。
がん哲学では言葉の処方箋がキモであるが、
樋野先生の言葉だけでなく、
一人一人が心にもつ言葉がそれぞれの処方箋となり得る。
「正論」よりも「配慮」
相手が間違ったことを言っていても、「正論」で正そうとするのではなく、
まずはいったん受容しましょうという傾聴の姿勢。
正義よりも思いやりが大切。
いったん受け容れることにより、次のステップに進める可能性がある。
センス・オブ・プロポーション
新渡戸稲造の言葉。
全体のバランスをみて、何が必要かを判断する能力のこと。
誰でも今日のことは見渡せるものだ。・・・
後藤新平が医学生のときに勝海舟を訪問し、
首の筋肉の作用を訊かれた。
その答えに対して、勝海舟は
「何か起こったときには、首の筋肉を伸ばして、向こうの方を見通すことが大切だ」
と後藤新平に伝えた。
自分が犠牲になっても心は豊かになる
ボランティア活動は誰のためにやっているのか。
自分の時間を使うことは「犠牲」かもしれないが、
結果として、自分の心が豊かになることはしばしば経験される。
自分が修養し、人の役に立てることがあるならば、
喜んで人に渡していく。それがボランティア精神である。
馬から降りて花を見る
高いところから見てわかった気になるのではなく、
地に足をつけて、じっくり考える。
目の前の困っている方のために
足を止めて対話するという寄り添い方を表した言葉。
置かれた場所で咲きなさい
他人の置かれた場所が、自分の場所よりよく思えてしまう反面、
自分の場所のよさには気が付かず、悪い面ばかり気になってしまいます。
人と比較するから苦しくなる。
人と比較しないことが、苦しみをやわらげることもあります。
人生の目的は品性を完成するにあり。
人がもし全世界を得るとしても、霊魂を失っては意味がない。
品性は性格という意味であるが、
価値観、倫理観などの人格を表している。
生き方の指南。
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