一般社団法人がん哲学外来

ことばの処方箋

これまでの“ことばの処方箋”

ロバに蹴られても怒らない
ロバは愚鈍の象徴として捉えられている動物だが、 聖書ではキリストが乗ったことから賢なる動物ともされる。 他者に何をされても怒らない態度。 宮澤賢治の「雨ニモマケズ」のモデルになったと言われている 斎藤宗次郎の生き方、「慾ハナク、決シテ瞋ラズ、イツモシヅカニワラッテヰル」に学ぶ。 斎藤宗次郎は内村鑑三の弟子。
砕けたる心、小児のごとき心、有のままの心
「基督信徒のなぐさめ」(内村鑑三著)第六章に書かれている言葉。 内村鑑三が人生のなかで経験したつらく苦しい状況のなかで、 キリスト者として得たなぐさめについて書かれている。 神は見返りとしてささげものを要求されることはないが、 困難な状況にある人は「汝の心をささげよ」と書かれている。 困難な状況にある人は、つらく苦しいそのままの心でいてよい。 メディカルカフェなどで寄り添う人が必ずいる。
無頓着に大胆になる
出典はおそらく「吾輩は猫である」(夏目漱石著)
無頓着とは、仏教用語で欲望のままにものごとに執着する
という意味の「貪着」を否定した言葉。ものごとを深く気にかけないこと。 大胆とは、ものを恐れない度胸があること。普通と違った思い切ったことをするさま。
人生において、今までと同じでは立ち行かなくなったとき、思い切って執着を手放す。
パラダイム・シフト。 考え・ものごと・人間関係などを断捨離するととらえてもよいかも。
「悲しい時は私たちのところへいらっしゃい、
いっしょに泣きましょう。・・・」
勝海舟の妻・勝民子の言葉。勝海舟は幕末の動乱期に多大な功績を残したが、
そのエネルギーは私生活でも相当なもので、
本妻の民子の他に妾を数人もち、彼女たちにうませた子どもも数人いた。
妻の民子は文句もいわず分け隔てなく面倒をみたといわれている。
勝海舟と長崎の女性との間にできた息子・梅太郎と結婚したアメリカ人女性が
クララ・ホイットニーといい、この女性は日本での生活を日記風にまとめており、
「勝海舟の嫁 クララの明治日記」というタイトルで中公文庫から出ている。
この書物の中に、クララが母国にいる母親を亡くし悲嘆にくれている時、
民子がクララに対して優しく言葉をかけたとある。
がん哲学外来が重んじている寄り添い方の基本といえる。
種を蒔く人になりなさい
困難な事柄だからといって諦めないで、
解決するための行動を起こす(=種をまく)ことで、
たとえそれが生きているうちに達成できなくても、
誰かのためになり大きな成果となることがある。
この世に無駄なことなどひとつもない。
解決はしなくても解消はできる。
「がん哲学外来」創始者の樋野興夫氏が、「コロナを生きる言葉集」の中で発信した言葉。
いつもついつい考えてしまう悩み事はなくなるものではないが、
その優先順位を下げて問わなくなることによって、
それまで自分を不安にさせていた悩みは解消するという考え方。
「3本の木」
作者不詳の民話が「3本の木」(いのちのことば社)から絵本化され、読み継がれているお話し。
遥か昔、ある山の頂に3本の木が育っていた。
木々たちはそれぞれ大きく育ったら何になりたいか夢をもっていた。
やがて、すくすくと成長した木々たちは切り倒され、人間の思いのままに使われていった。
それは、木々たちが夢見たものとは違っていた……。
しかし、時がたち、夢をかなえることができなかった三本の木は、
思い描いていた夢とは違うものの納得のいく使われ方をしたのだった。
つまり、夢がかなわなかったといって悲嘆するのではなく、
悲しみの中でも新しい自分を見出し自分を大切にして
生きていくことの大事さを説いている。
深い川は静かに流れる。
深い川の流れは浅い川のように水音をたてないことから、
分別のある思慮深い人は、悠然と構えていて
やたらに騒いだりしないという意味。
がんなどの病気になった時の心構えとして参考になる。
世間の風霜に打たれ、人生の酸味を嘗め、世態の妙を穿ち、人情の微を究めて、
しかる後、共に経世の要務を談ずることが出来るのだ(勝海舟)
勝海舟の言葉。世の中にはいろいろな試練がある。
その中で様々なことを知り、人とつながり、研鑚を積んでゆく。
人様のための仕事をするには、これらの日々の鍛錬が必要なのかもしれない
馬から下りて花を見る
〈Get off the horse and look at the flowers.〉
かつて侍たちは村を通る際、馬の上から村民を見下ろしていた。
力のあるものが、力の無いものを支配する。
それは今の世の中でも常時どこでもおきていて、
これを読むあなたの行動もそう見えることもあるかもしれない。
そこに気づき、相手と話すときに相手と同じ視点、
同じ視野でものを見直してみよう。
世の中は大きく変わって見えるようになるのではないか。
苦しみが品性を磨く
〈Suffering helps shape a character.〉
病にかかること、生活の上で辛酸をなめること、悔しいこと、
たくさんのことが人生におきてくる。
そのときはとても苦しいものであるが、
そのことを真摯に受け止め、生きてゆくことで、
人間らしさや品性が磨かれてゆくものではないだろうか。
人生にはもしかすると、このときのためと思えることがある
〈Maybe it was all meant for today.〉
人生の邂逅ともいえる瞬間がどの人にも訪れてくる。
その瞬間はいつなのかわからない。
一つとて、日々の努力や生活に無駄はないということではないか。
1日1日、一期一会を大切に。
どちらの道をとるか、きめなければならないのは私たちなのだ。
レイチェル・カーソンの「沈黙の春」の一部。
訳者の青樹簗一氏は南原繁の息子、南原実氏。
私たちは「人生のなかで常に何かを選択して
生きていかなくてはならない」というあり方を述べている。
日本肝臓論
肝臓という臓器の特徴は、人間のあり方に置き換えることができる。
「人体で起こっていることは社会と連動している」
という吉田富三の言葉と関連付けることができる。
冷たい専門性より温かいアマチュア精神が効果的なこともある。
冷たくても専門性は必要。
足らない部分を温かいアマチュア精神≒メディカルカフェで補う。
医療の隙間を埋めるということである。
新渡戸稲造は「センモンセンスよりもコモンセンス」と言っている。
センモンセンスは専門家のみであるが、コモンセンスは誰でも磨くことができる。
死魚は流れのままに流されるが、活魚は流れに逆らって泳ぐ。
札幌農学校で水産学が専門であった内村鑑三の言葉。
流れのままに流されるのは簡単だが、
思いをもって生きているのであれば、
敢えて流れに逆らって生きる生き方もある。
縦の関係と横の関係
「人生には縦の関係と横の関係があり、
この二種類の関係を大切にしなければならない」
という新渡戸稲造の言葉。
縦は天(神)とのつながり、横は人と人、
社会とのつながりをあらわす。
人生は開いた扇の要の如く
「すべて小さく始まって着実に広がっていく」
「出発点では小さくてたえず大きくなっている」
という人生を扇に喩えた新渡戸稲造の言葉と、
多段階発がんの「起始→過程→大成」を同様のものととらえた
吉田富三の「癌細胞に起こることは人間社会にも必ず起こる。
つまり人体の中で起こっていることは社会と連動している」を想起させる。
要の部分は人間社会では出会いを意味する。
一番大切なものは目に見えない
サン=テグジュペリの「星の王子さま」より。
「星の王子さま」は大切なものを探し求めるが、
大切なものは目に見えないし、人によって違うことに気づく。
ある種、究極の場面ともいえる死に対しても
「死ぬことになったとしても、友だちがいたというのはいいことだよ」
という気づきを得る。
気にすることなく、やり遂げなさい
マザー・テレサの『あなたの中の最良のものを』の一部分。
いついかなるときでも、
自分の中の最良のものを与え続ける努力をしなさいという意味。
マザー・テレサの言葉には「相手のニーズに添う」という部分はないが、
自分の思いでやっていたとしても、
それが神から与えられたものであるならば、相手のためになっているのかも。
曖昧なことは曖昧に考える
はっきりさせることばかりがよいのではない。
答えは無理に出さなくてもよいが、考えることはしたほうがよい。
心理学的な言葉では「ネガティブ・ケイパビリティ」にあたる。
がん哲学的には「考えるのは1日1時間」でよい。
病気であっても病人でない
患者さんに対しては病気に縛られないでというメッセージ。
ケアギバーに対しては、「患者さんにはこういうつらさがあるに違いない」
という思い込みをもって、つまり患者さんを病人に仕立ててしまわずに、
その人自身と向き合いましょうというメッセージ。
生き方がハンサム
同志社を設立した新島襄が、 当時婚約者であった八重を紹介するときに使った言葉 「八重はハンサムではないが、彼女の生き方がハンサムだ」。 容姿が美しいことよりも、 生き方が自律していてカッコイイ人を目標とする。
空っぽの器
出典は聖書に出てくる「土の器」と思われる。 「土の器」は身体を表し、材料が同じであっても、 焼き方によって、いろいろの器ができる。 転じて、同じ人間の身体であっても、健康であることも病を得ることもある。 どんな器であっても、中身として宝を入れている。 どんな人も大切な一個人である喩え。 どんな器であっても、慈愛によって包み込まれる。 どんな人をも包み込む器がメディカルカフェであるという喩え。
われ21世紀の新渡戸とならん
がん哲学の提唱者である樋野興夫先生の「われ21世紀の新渡戸とならん」は、 新渡戸稲造の言葉である「我、太平洋の橋とならん」 をもじったものと思っていたが、新渡戸の生き方を学ぶと、 樋野先生は新渡戸をロールモデルにされていると感じる。 ロールモデルをみつけることで自身の成長を促せる。
己れを棄つる
世のため人のためにさまざまな活動をしてきた 新渡戸稲造の遺言と言われている文 「衆の為めに努むるを生命といふなり。死とは何事をもせざるの意なり。 己れを棄つるは是れ生命の始なり。」 ここに新渡戸稲造の生き方が表現されている。
新渡戸稲造の言葉。
武士道の徳目は、「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」は がん哲学の徳目としても捉えることができる。 「義」は正義(正論)、「勇」は勇気、「仁」は思いやり、 「礼」は実際に行動として起こす、「誠」は誠実、 「名誉」はいのちより大切なもの、「忠義」は何のために生きるのか というように置き換えてみると、どれも時代を超えて、大切なことである。
冷たい親族より温かい他人
内村鑑三は家庭環境に恵まれなかった。
きょうだいや夫婦仲はうまくいかなかったが、
内村はキリスト者の集まりの中に温かい他人を見出した。
しかし、そんな内村も、3番目の妻と結婚したときに、
家庭が安らげるものだと気づいた。
「ホーム」が安らげるところでなくても、
「ホーム」の外に居場所はあるものである。
モー往きます
内村ルツ子(内村鑑三の娘)の最期の言葉。
ルツ子は原因不明の病で17歳で亡くなった。
内村は「往きます」に「大往生」の「往」を使った。
これにより、娘の死が大往生であったと思った、
または思いたかった内村の思いが詰まった言葉となった。
ハッピーではなく、ジョイフルを求めましょう。
ジョイフルは内面から湧き上がってくる「歓び」。
ハッピーを追い求めても、虚しさが残ることもある。
ジョイフルは人から与えられるものではなく、自分で気づくものだが、
ジョイフルに気づいた人は、些細なことにもハッピーを感じられる。
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