一般社団法人がん哲学外来

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21世紀のがん哲学 樋野興夫
〜すこしの時間ご一緒しませんか?
ちょっと立ちどまり、一息つき、考えるときを持ち、歴史人に思いをはせる~

第49回  国を超えて、 時を超えて! 〜 『真の国際人』 〜

2025年2月16日wifeとKBFに出席した。 日本、韓国、中国、アジア、インド、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカなど各国の人も参加されていた。 『真の国際人の育成』のタイミングともなった。

【1919年パリ講和会議が開催されている頃、『スペインかぜ』がフランスでも猛威をふるっていて、パンデミック(世界流行)で、感染者6億人、死者4,000万~5,000万人にも達したと推定されている】と、以前に聞いたものである。 そのとき、新渡戸稲造はパリにいて、その後、国際連盟事務次長に就任している。ドーマス・カーライル(Thomas Carlyle 1795-1881)の影響を受けた新渡戸稲造は、『common sense(社会常識)を備えもった柔軟性のある人格者』と謳われている。

今回、2024年8月24日【第7回日本メディカルヴィレッジ学会 in 六ヶ所 〜 みんなで考えよう!六ヶ所村のこれからの医療と健康 〜】(大会長:島田義也先生:環境科学技術研究所理事長)と島田義也先生に、協力して頂いた2013年12月14日の【お茶の水がん学アカデミア100回記念シンポジウム 〜 病理・腫瘍学教授就任10周年記念 〜)】が、今回鮮明に想い出された。 島田義也先生とは『21世紀の知的協力委員会』も立ち上げた。 2013年【新渡戸稲造(1862-1933)没80周年記念・新島襄(1843-1890)生誕170周年記念シンポジウム〜今、懸け橋をつくる。国を超えて、時を超えて!〜】(主催:21世紀の知的協力委員会)が開催された。 筆者は『新島襄ー>クラーク(1826-1886)ー>内村鑑三(1861-1930)—>新渡戸稲造−>の歴史の流れ』で講演する機会が与えられた。 パネルデイスカッション『国を超えて、時を超えて』は、大いなる学びの時であった。 筆者は、シンポジウムに臨むに当たり、新渡戸稲造の『一日一言』(1915年)の11月25日付けの文章【明治23年の今日、初めて帝国会議召集さえる。 事の是非曲直、政治の長短、学理の真偽は、飽くまでも、しかも冷静に明らかに争うべし。—— 水かけ論や、—— 揚げ足取りは聞かぬもよけれ、いわぬに勝るなり。】を改めて読み直したものである。

それから落合川を散策した。川に浮かぶカモ、白鳥、泳ぐ鯉を眺めた。犬と散歩する人々、走行の運動する人々、公園で バスケットを楽しむ家族を見て、心温まった。

『30m後ろから誰かを見ている人物になる』(添付)のタイミングともなった。

第47回 『一生の思い出』 〜 『愛情の原点』 〜

筆者は、2025年2月12日 自由学園初等部教頭 稲村祐子先生の企画【特別授業&映画会】に参上する(添付)。 筆者の故郷『島根県出雲市大社町鵜峠』は、無医村で小学校も中学校も廃校になった。 現在は人口34名、60%の空き家である。 母に背負われて、隣の村の診療所に行った体験が、脳裏に焼き付いている。

筆者の誕生の年(1954年)の母の元旦の夢が【富士山(3776m)】(添付)であり、幼児の時から『富士山子』と母に励まされたものである。 幼年時代のインプリンテイングは 生涯に影響を与える。 これが『愛情の原点』となろう!

自由学園は『羽仁もと子』(1873-1957)夫妻によて、1921年開設されている。『羽仁もと子』は、婦人之友社の創立者でもある。【日本初の女性新聞記者であった羽仁もと子は、夫の吉一と共に、近代化する日本に 自分たちが考える新しい社会を作りたいと願い、『よい家庭がよい社会をつくる』という信念のもと、1903年に月刊誌『家庭之友』(現『婦人之友』)を創刊しました。 羽仁夫妻は新時代の形成のために女性や子どもの教育を重視し、雑誌出版や関連する活動を通じて 女性や子どもの啓蒙活動に取り組んでいきました。 やがてその思いは『新しい学校』をつくる夢へと結ばれていきます。 機械的に知識を詰め込むだけで、ものごとの本質を教えていない教育に危機感を覚えた羽仁夫妻は、真に人間を重んじ育てる教育を希って、新しい学校『自由学園』をつくりました。―― 1932年に、世界新教育会議にて、自由学園を『それ自身一つの社会として生き成長し、そうして働きかけつつある学校』と―― 】とHPに紹介されている。
【神谷美恵子(1914-1979)の父、前田多門(1884-1962)が国際労働機関の政府代表として任命され、スイス、ジュネーブに転居。 ―― 1926 年秋、父の仕事の任務が終わり、日本に帰国。 ―― 帰国後に選んだ学校は自由学園でした。】とのメールが 京都在住の『神谷美恵子』研究者の田中真美先生から届いた。 前田多門の仲人は新渡戸稲造(1862-1933)であった。 前田多門は、内村鑑三(1861-1930) の主宰する『柏会』に属していた。 神谷美恵子が3歳の時に、新渡戸稲造は 膝に抱いてあやしている。 神谷美恵子は『一生の思い出であった』と語っている。 神谷美恵子は 43 歳でがんになり、生きがいを求めて『ハンセン氏病施設の長島愛生園』で精神科医として勤めた。 そして『生きがい』を出版した。 まさに『もしかすると この時のため』(エステル記4章14節)であろう!

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