一般社団法人がん哲学外来

ことばの処方箋

これまでの“ことばの処方箋”

「桃太郎」の現代的意義
犬猿の仲のものが一つの目標に向かって一緒に進んだ。
これは2つの焦点をもつ「楕円形の心」である。
新渡戸稲造によると、性質の異なったものを
「最高の運命共同体」に育て上げたのが「桃太郎の器量」である。
人生いばらの道、されど宴会
出典は聖書。苦しんでいる人、つらい人、悩んでいる人はついついネガティブ思考に陥ってしまう。
そういうときでも心の持ち方次第で、心が少し軽くなることもあるかも。
ただ、渦中にある人はなかなかそうは思えないし、楽しい思い出を持ちあわせているとも限らない。
支援者は30mの距離をもって、ずっと寄り添い続けることが必要。
「私たちの齢は70年。健やかであっても80年。」
聖書によると、一番初めに創られた人であるアダムは930歳であったが、
神様が人間の寿命を短く設定することにしたとされる。モーセは120歳生きた。
崇神天皇は120歳まで生きたと日本書紀に記されている。
現代(2022年4月)の世界最高齢は118歳である。
さまざまな原因で寿命まで生きられないことがあり、がんもその原因の一つである。
がんは遺伝子の変化で起こる。加齢だけでも遺伝子の変化の可能性はあり、
つまり、生きることががん化への道となる。
それをどう受けとめるか。「ニーバーの祈り」のなかにそのヒントが書かれている。
一人の人間を癒す為には、一つの村が必要である。
「田舎が廃れて農業が廃れてしまうと人格を形成することができない」
という新渡戸稲造の持論によるものと思われる。
遠くのことより身近な村のことから知るほうが知識が生きてくるので、
地域のニーズにあった活動(がん哲学外来カフェ)ができ得る。
尺取り虫になって歩む
尺取り虫の運動は、後ろの一点を固定して、前部を動かすので、
オリジナリティーを失わずに自分で生き方を決めることができる。 また尺取り虫が体を屈するのは伸ばそうとしてのことである。
人間も一時的に不遇であってもそれは将来に備えての準備である。
「僕にもわからん」
矢内原忠雄が内村鑑三に両親の死後の運命について質問をしたときの内村の返答。 この言葉により矢内原は、誰か人に教えてもらうのではなく、
時が来れば神が教えてくれる(自分で気づくことができる)ということがわかった。
ユーモアとはユー・モアなり
ユーモアとは、人がおかしさを感じて、表情が和んだり、心が温かくなったり、
場の空気が柔らかくなったりするような発言のこと。
相手のことを「ユー・モア(もっと大切に)」思って、相手を和ませるような言葉を発することが肝要。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
聖書(マタイによる福音書)より。
明日には明日の苦労があるかもしれないが、取り越し苦労することなく、
今日という一日を大切に生きていきましょう。
「人はパンで生きる」は事実。・・・
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という聖書の言葉が出典。
がん哲学では言葉の処方箋がキモであるが、樋野先生の言葉だけでなく、
一人一人が心にもつ言葉がそれぞれの処方箋となり得る。
「正論」よりも「配慮」
相手が間違ったことを言っていても、「正論」で正そうとするのではなく、
まずはいったん受容しましょうという傾聴の姿勢。
正義よりも思いやりが大切。
いったん受け容れることにより、次のステップに進める可能性がある。
センス・オブ・プロポーション
新渡戸稲造の言葉。
全体のバランスをみて、何が必要かを判断する能力のこと。
誰でも今日のことは見渡せるものだ。・・・
後藤新平が医学生のときに勝海舟を訪問し、首の筋肉の作用を訊かれた。
その答えに対して、勝海舟は「何か起こったときには、首の筋肉を伸ばして、向こうの方を見通すことが大切だ」
と後藤新平に伝えた。
自分が犠牲になっても心は豊かになる
ボランティア活動は誰のためにやっているのか。
自分の時間を使うことは「犠牲」かもしれないが、結果として、自分の心が豊かになることはしばしば経験される。
自分が修養し、人の役に立てることがあるならば、喜んで人に渡していく。それがボランティア精神である。
馬から降りて花を見る
高いところから見てわかった気になるのではなく、地に足をつけて、じっくり考える。
目の前の困っている方のために足を止めて対話するという寄り添い方を表した言葉。
置かれた場所で咲きなさい
他人の置かれた場所が、自分の場所よりよく思えてしまう反面、
自分の場所のよさには気が付かず、悪い面ばかり気になってしまいます。
人と比較するから苦しくなる。
人と比較しないことが、苦しみをやわらげることもあります。
人生の目的は品性を完成するにあり。
人がもし全世界を得るとしても、霊魂を失っては意味がない。
品性は性格という意味であるが、価値観、倫理観などの人格を表している。
生き方の指南。
勇ましい高尚なる生涯
未来に何を遺せるか。勇ましい高尚なる生涯は誰でも遺せます。
勇ましい高尚なる生涯とは何か。
どんな人でも自分の人生を、自分らしく生き抜いた生き様は未来に遺すことができます。
明日この世を去るとしても今日の花に水をやる
明日、目が覚めないとしても、今自分にできることをする。後悔しないように今日を精一杯生きる。
あるいは、自分がこの世を去るとしても、花という希望を未来に残していくという生き方。
自分のことばかりにとらわれるのではなく、自分以外のものに目を向けてみると、
生き方の優先順位が変わるかもしれません。
本当に大切なものはゴミ箱のなかにある。
言葉は受け取る人が準備できていないと受け取れない。
見るものも見ようとしないと見えない。
気づきも気づこうと思っていなければ気づけない。
知らないうちに、大切なものをゴミ箱のなかに捨ててしまっているかも。
歯を食いしばって笑う(褒める)
出典:「ワーニャ伯父さん」(チェーホフ作)
「歯を食いしばる」は頑張ること。頑張って笑う(褒める)
チェーホフの作品は、未来や希望を失った人が耐える人生を歩むストーリーが多い。
病気になったことで未来や希望を失った人でも、頑張って笑っていれば、いつか道が拓ける。
嫌な相手にこそ頑張って褒めると、道が拓ける。
1周遅れの先頭の責務
林良博東大農学部長(当時)の言葉。
必死のパッチで先頭を走っているのもよいが、
傍から見れば、誰が先頭で誰が周回遅れかは意外にわからないもの。
余裕綽々の顔で楽しく走っているのもよい。
論語「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」
病気は人生の夏休み
病気は心身を休めるチャンス。
夏休みといえば宿題がつきものですが、
あとで宿題をしなくてはならないとしても一旦休むことが必要なときもある。
病気になったことで、物事の優先順位を変えることができればよい。
人生邂逅の三大法則
邂逅とは出会いのこと。人生において「よき師、よき友、よき読書」と出会う。
自分が求めていても出会えないこともあり得るが、出会いはタイミング。
タイミングよく出会えれば幸い。
出会えなくても悲しむ必要はないし、タイミングよく出会えたご縁や関係性に執着しないことも大切。
涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の本当の味はわからない。
「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」(ゲーテ著)に出てくる言葉。
解釈には諸説あるようだが、原文のドイツ語が意訳されているようである。
東はつらく、苦しい方から「こんなにつらくて、何も手につかないのに、お腹すくんです」
という言葉を聴いて、真理だと思った。
樋野興夫→新渡戸稲造→トーマス・カーライル→ゲーテ
自分の敬愛する人・尊敬する人の書物、言葉などは遡って源流をたどってみるのもよい。
真理は円形にあらず、楕円形である。
「聖書之研究」内村鑑三著 に出てくる言葉。
「万物は楕円形であり、中心が2つある」というのはアインシュタインが言っていて、内村鑑三はそれを引用している。
「患難の坩堝の内に燃え尽くす火に鍛えられて初めて実得し得るものである」と書かれているように、
相対する2つのものをバランスよく受け容れることはたやすいことではないが、
それが真実なのだから、自分の中で落としどころを決めて受け容れる。
犬のおまわりさん
ないてばかりいるこねこちゃんと一緒に、こまってしまってないている犬のおまわりさん。
何かをして差し上げたり、「(あなたの仰ってることが)わかる」という言葉よりも、
ただなすすべもなく傾聴したり、ただ寄り添っているだけの姿勢が大切。
マイナス×マイナス=プラス
つらい、苦しいなどマイナスの気もちを持っている方。
プラスはマイナスの気もちを持っていない方や克服された方。
マイナス×プラス=マイナス マイナスの方がプラスの方と接しても、マイナスの気もちは解消されない。
樋野先生は、マイナスの方が自分よりもっとマイナスの方を探しに行くと、共感しあえてプラスになると仰る。
東の解釈では、マイナスの方が、自分よりもっとマイナスの方に出会うと、自分のことを置いといても、
その方に寄り添いたいと思う、心を寄せることができる、その気もちがプラス。 儒教では仁、仏教では慈悲、キリスト教では愛、これらはすべて同じものを表していて、人間に本来備わっているものである。
つらく、苦しい経験をした人もいつかは人間の成長過程としてそうなっていく。
それは人から押しつけられるものではなく、自分で気づくものである。
やるだけのことはやって・・・
勝海舟の言葉。
ベストを尽くして、あとは結果を待つ。
結果によらず、ベストを尽くしたこと、努力したことは、お天道様(人、神など)が見てくれているし、
何よりも自分の身になっている。
中国古典の「人事を尽くして天命を待つ」
30m後ろから見守る
30mとは、人が居るという気配、誰かの存在を感じられる距離。
声をかけようと思ったら、声が届く距離。
そっとしてほしいときであっても、独りぼっちは寂しい。
誰かの存在を感じられる距離をとって見守る。
速効性と英断
よいと思ったことは迷わず、ぱっとやる。
ぐずぐずしていると、周囲からの茶々に惑わされるかも。
個人プレイヤーのみにあてはまるのではなく、組織のなかにあっても、
自分が「よし、やるぞ!」と決めたときの覚悟のあり方の1つ。
〈トップページに戻る〉