一般社団法人がん哲学外来

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21世紀のがん哲学 樋野興夫
〜すこしの時間ご一緒しませんか?
ちょっと立ちどまり、一息つき、考えるときを持ち、歴史人に思いをはせる~

第78回 『自分はどのように生きるか』 〜 『人格形成を重んじた教育』 〜

2025年7月6日【がん哲学外来メディカルカフェ@よどばし11周年記念】で、ドキュメンタリー映画『がんと生きる言葉の処方箋』が上映された。 自由学園初等部教頭 稲村祐子先生も参加されていた。 早速【樋野興夫先生 今日は久しぶりに先生にお会いできて感謝でした。 映画は何度も観ていますが、何回観ても心に言葉の処方箋が響きます。『自分はどのように生きるか』と、いつも問われます。】との心温まる励ましのメールを頂いた。 自由学園は『羽仁もと子』(1873-1957)夫妻によって1921年開設されている。『羽仁もと子は、婦人之友社の創立者』でもある。 筆者は12月6日 自由学園で講演を依頼されている。

2作目は、ドキュメンタリー映画『新渡戸の夢 〜 学ぶことは生きる証 〜』(野澤和之監督 新渡戸の夢映画製作委員会)である。【新渡戸稲造(1862~1933)は、岩手県盛岡市、南部藩士・新渡戸十次郎の三男として生まれる。 米国で出版された『BUSHIDO The Soul of Japan』(邦題:『武士道』)の著者として知られる新渡戸稲造は、教育者としての業績を残している。 新渡戸稲造が32歳の札幌農学校教授時代に、貧しくて学校に通えない人々のために妻メリー(1857-1938)と始めたのが『遠友夜学校』である(1894年)。 授業料無料•男女共学で年齢制限なしという当時としては画期的な学校であった。 富や名誉より人格形成を重んじた教育が行われた。】と紹介されている。

順天堂大学医学部教授就任の2003年に初版『われ21世紀の新渡戸とならん』を、2018年に新訂版、2019年4月には 英語版『I Want to Be the 21 st Century Inazo Nitobe』が発行された(添付)。定年退職のタイミングで2019年4月『新渡戸稲造 記念センター長就任』となった(添付)。著作20周年記念の2023年に『新渡戸稲造 壁を破る言葉: 逆境に立ち向かう者へ40のメッセージ』(添付)が出版された。『歴史は人知を超えて、ゆっくりと前進する』を実感する日々である。

第77回 人知を超えて、時が進んでいる 〜 冗談を本気で実現する 〜

『がん哲学外来』に面談に来られた方から、『樋野先生に お目に掛かること叶いとても嬉しかったです。 本当に 本当に有難うございました。―― お会いすることも もう無いかも知れませんが、樋野先生への感謝とご尊敬は忘れません。』との心温まる励ましのお葉書が届いた。 大いに感動した。

2025年7月1日センター長を務める『新渡戸稲造(1862−1933)記念センター in 新渡戸記念中野総合病院』に赴いた。2003年に初版『われ21世紀の新渡戸とならん』、2018年に新訂版、2019年4月には 英語版『I Want to Be the 21 st Century Inazo Nitobe』が発行されることになった。 タイミング的に『新渡戸稲造 記念センター長就任』となった。 人知を超えて、時が進んでいるこを痛感する。

712年に編纂された『古事記』に登場する、医療の原点を教えてくれる大国主命の出雲大社から、8キロほど、峠を越えて美しい日本海に面した小さな村が、筆者の生まれ育った島根県簸川郡大社町鵜峠(うど)である。 隣の鷺浦(さぎうら)と合わせて、鵜(う)鷺(さぎ)と呼ばれている。 713年に編纂が命じられたという『出雲国風土記』にも登場する歴史ある地である。 今は廃校となった鵜鷺小学校(鵜峠と鷺浦の中間に位置する)の卒業式で、来賓が言った言葉が『ボーイズ・ビー・アンビシャス』(boys be ambitious)である。 札幌農学校を率いたウィリアム・クラーク(1826-1886)が、その地を去るに臨んで、馬上から学生に向かって叫んだと伝えられている言葉である。 クラーク精神が新渡戸稲造、内村鑑三(1861-1930)で、筆者の原点である。 そして19歳の時から、尊敬する人物を学んできた。 その人物とは、南原繁(1889-1974)と矢内原忠雄(1893-1961)である。 筆者は、現在『南原繁研究会』の第3代目の代表を仰せつかっている。『新渡戸稲造のNHK大河ドラマ』の製作は歴史的要請であろう! まさに、『冗談を本気で実現する胆力の試金石』である。

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