第73回 『言葉の処方箋の原点』 〜 読書歴の賜物 〜
最近、『言葉の処方箋の原点』について聞かれることが多い。 【若き日に学んだ『苦難をいかに生きるかに大きな感化を与えた 新渡戸稲造(1862-1933)の教え』である】と答える。 思えば、癌研時代、今は亡き原田明夫氏(1939-2017)検事総長(添付)との、2000年『新渡戸稲造 武士道100周年記念シンポ』は、私が『陣営の外に出る 大きな人生の邂逅』となった。さらに『新渡戸稲造生誕140年』(2002年)、『新渡戸稲造没後70年』(2003年)も一緒に企画する機会が与えられた。 順天堂大学に就任して、2004年に国連大学で『新渡戸稲造 5000円札さようならシンポ』を一緒に開催したのが 走馬灯のように駆け巡ってくる。
新渡戸稲造は、体調を崩してカリフォルニアに転地療養をすることになる。 このカリフォルニアでの療養中に書き上げ、刊行したのが『武士道』(添付)である。 当時36歳の保養中(1899年)の『武士道』(1900年発行)には、275名の人名が記述されている。【日本人 83名、イギリス人 60名、ドイツ人 21名、ギリシャ人 20名、ローマ人 19名、アメリカ人 18名、フランス人 16名、中国人 6名、その他 32名 】で あろうか! 驚きである。 これは、新渡戸稲造が札幌農学校の『学生時代の読書歴の賜物』であろう!
第一次世界大戦(1914-1918)後、国際連盟設立に際して、初代事務次長に選任され、世界平和、国際協調のために力を尽くしている。 国際連盟事務次長時代(1920〜1926)の新渡戸稲造が設立したのが『知的協力委員会』である。 【世界の幸福を願い、世界中の叡智を集めて設立した『知的協力委員会』には哲学者のベルグソン(1859-1941)や物理学者のアインシュタイン(1879-1955)、キュリー夫人(1867-1934)らが委員として参加、第一次世界大戦後に困窮が著しかった各国の生活水準の調査や知的財産に関する国際条約案を検討し、各国の利害調整にあった。この『知的協力委員会』の後身がユネスコである。】
第72回 生きる力を与える 〜 良き本、良き師、良き友との出会い 〜
2025年6月7日『早稲田大学エクステンションセンター中野校』での【講座名:がんと生きる哲学 & テキスト『新渡戸稲造 壁を破る言葉: 逆境に立ち向かう者へ40のメッセージ』(三笠書房 出版)】に赴く。
講座終了後は、中野駅から古河駅向かう。【『古河はなももカフェ 2周年記念講演会』(代表:三橋惠子氏)】で講演『清々しい胆力 ~ 賢明な寛容 ~』である(添付)。 講演後は、『質疑応答・懇談会』も予定されている。
【明日、どうぞよろしくお願いいたします。 カフェのメンバーも、先生と間近で お話を伺えますことを楽しみにしております。『鵜峠の風景は 素晴らしいです』。 幼いころの体験は興味深く、『先生の人生の原点』になっているのですね。 『人生の繋がりは一人一人ある』ことを、考えさせて下さいます。 私にとって、『いずみカフェ』の講演会で先生と出会い、『言葉の処方箋』を頂いたことが、人生を変えることになりました。 『良き道へと招いて下さった』ことに心から感謝しております。 明日の講演会が そのような機会になるように、願っています。
ある方が『ことばの力、良い言葉は 人に生きる力を与える』&『樋野先生の言葉に、[良き本、良き師、良き友]があり、まさに[良き本との出会い]でした。』との感想を話されました。当日は 古河駅改札口にお迎えに参ります。】との心温まるメールを頂いた。 ただただ感謝である。
6月3日 wifeと筆者の母の7周忌で 実家(島根県出雲大社町『鵜峠』:出雲大社から、8キロほど、峠を越えて美しい日本海に面した小さな村:人口30名、空き家60%)に帰郷した。 三橋惠子氏は、その時の『鵜峠』の写真を拝見された。