第47回 『一生の思い出』 〜 『愛情の原点』 〜
筆者は、2025年2月12日 自由学園初等部教頭 稲村祐子先生の企画【特別授業&映画会】に参上する(添付)。 筆者の故郷『島根県出雲市大社町鵜峠』は、無医村で小学校も中学校も廃校になった。 現在は人口34名、60%の空き家である。 母に背負われて、隣の村の診療所に行った体験が、脳裏に焼き付いている。
筆者の誕生の年(1954年)の母の元旦の夢が【富士山(3776m)】(添付)であり、幼児の時から『富士山子』と母に励まされたものである。 幼年時代のインプリンテイングは 生涯に影響を与える。 これが『愛情の原点』となろう!
自由学園は『羽仁もと子』(1873-1957)夫妻によて、1921年開設されている。『羽仁もと子』は、婦人之友社の創立者でもある。【日本初の女性新聞記者であった羽仁もと子は、夫の吉一と共に、近代化する日本に 自分たちが考える新しい社会を作りたいと願い、『よい家庭がよい社会をつくる』という信念のもと、1903年に月刊誌『家庭之友』(現『婦人之友』)を創刊しました。 羽仁夫妻は新時代の形成のために女性や子どもの教育を重視し、雑誌出版や関連する活動を通じて 女性や子どもの啓蒙活動に取り組んでいきました。 やがてその思いは『新しい学校』をつくる夢へと結ばれていきます。 機械的に知識を詰め込むだけで、ものごとの本質を教えていない教育に危機感を覚えた羽仁夫妻は、真に人間を重んじ育てる教育を希って、新しい学校『自由学園』をつくりました。―― 1932年に、世界新教育会議にて、自由学園を『それ自身一つの社会として生き成長し、そうして働きかけつつある学校』と―― 】とHPに紹介されている。
【神谷美恵子(1914-1979)の父、前田多門(1884-1962)が国際労働機関の政府代表として任命され、スイス、ジュネーブに転居。 ―― 1926 年秋、父の仕事の任務が終わり、日本に帰国。 ―― 帰国後に選んだ学校は自由学園でした。】とのメールが 京都在住の『神谷美恵子』研究者の田中真美先生から届いた。 前田多門の仲人は新渡戸稲造(1862-1933)であった。 前田多門は、内村鑑三(1861-1930) の主宰する『柏会』に属していた。 神谷美恵子が3歳の時に、新渡戸稲造は 膝に抱いてあやしている。 神谷美恵子は『一生の思い出であった』と語っている。 神谷美恵子は 43 歳でがんになり、生きがいを求めて『ハンセン氏病施設の長島愛生園』で精神科医として勤めた。 そして『生きがい』を出版した。 まさに『もしかすると この時のため』(エステル記4章14節)であろう!